唯代終が運営している一次創作サイトです。主に私が書いた作品、参加企画のまとめ、合同創作などを載せています。

 満たされない気持ちだった。
 常にお腹が空いていて切ないような、身長が足りなくて欲しいものに手が届かないような。そんなもどかしくて切ないような気持ちが、常にそばにあった。

「へえ、なにそれ。今もそんな気持ちなの?」

 放課後の第三音楽室。夕日が差し込む旧校舎で、ピアノの鍵盤に手を添えながら先輩が笑う。ペダルを踏むたび揺れる空気とスカートがチラチラ視界を刺激する。いけないことをしてい気分になって、ボクは目をそらした。

「難しいこと考えてんね。あ、だからソウヤの眉間ってシワだらけなの?」
「うるっさいな」

 眉間に力が入ったのを自覚して、ため息とともに脱力する。

「ただ毎日つまんないなって思ってるだけですよ」
「いやあ、それが分からんね。一日二十四時間しかないのに、ツマンネーってずっと思ってるってことだろ? ……うん、私には分からん」
「そりゃ、毎日ピアノ弾いてる先輩には時間が足りないんでしょうけど」

 差し込む西日が先輩の背中を照らす。一度も染めたことがないのであろう彼女の真っ黒な髪が、さらりと流れた。窓の外からは帰宅中の生徒の笑い声と、始まったばかりらしい運動部の掛け声が入り込んでくる。もう夕方だと言うのに、セミがじゃかじゃかとやかましい。

「時間が有り余ってるボクは、ここから帰るとそういう虚しい気分になんですよ」

 先輩は大きく笑って、それから、手を止めた。柔らかなピアノの音が止まって、どこの誰だかもわからない、聞きたくもない声ばかりが耳につく。
 不愉快だな。
 ギシギシうるさい椅子に座り直して、背もたれに体を預けて「笑う意味が分からない」とこぼせば、「笑う意味なんかひとつだろう」と余計に笑われる。

「君はあれだね、面倒な子だ。私が羨ましいならそう言えばいいのに」
「はあ? 今の会話のどこをどう解釈したらそうなるんですか」
「違ったか? なら訂正しよう、私が大好きならそう言えばいいのに」
「だから、そんなこと一言も言ってないでしょ」
「そうかな。“先輩にはピアノがあって羨ましい”、“ボクにも夢中になれるなにかが欲しい”。そうやって駄々をこねているように聞こえたよ」

 反論しようと口を開いて……やめた。当たってないけど、外れてもいない気がした。
 先輩はいたずらっぽく笑って、上履きを脱いで、座っている椅子の上にかかとを持ってくる。やめろよ、スカートの中が見える。もう一度視線を外して、窓の外を見る。雲が大きい。

「たぶんね。ソウヤは、夢中がほしいんだ。一生懸命でお腹いっぱいにしたいんだよ。だから、おいしそうにピアノを食べている私が羨ましいんだ」
 それか私の演奏が大好きだから、さよならが寂しいんだね。

 得意げに笑った先輩は「どうだ、大正解だろ」と椅子の上で揺れた。パンツが見えた。青のレースだった。そんな格好をするなら短パンを履け。視線をそらしていたはずなのに失敗した。先輩が動くのが悪い。

「大外れですよ、バカですか」
「なんだ、それは残念。私は大好きなんだがな」

 なにが。とは聞こえなかった。ボクが好きだと先輩が言うはずもないし、ピアノが好きだと言われても面白くないことが分かっていたから。
 じりじりと眉間に力がこもる。先輩は面白そうにボクを見て「そのままビームでも発射しそうだな」とこぼした。

「撃てるようになったら教えてくれ、的を用意しよう」
「あいにく改造手術する予定も異能を授かる予定もありません。的もいりません」

 先輩の興味はすでにビームから移っているようで、おもむろに靴下を脱いで素足をさらす。脱いだ靴下を上履きに突っ込んで、足をペダルにかける。自由になった先輩の五指は、ペダルを踏むことなくわさわさ気ままに動いていた。
 気がついたらボクの背中は丸まっていて、落ちてきた前髪が目元を刺した。

「夏休みになるからね」先輩の手が鍵盤にかかった。「最後にリクエストを受け付けようかな」

 期待したようにボクを見る彼女と目をあわせて、少し考えてから「エルガー、愛の挨拶」と返す。先輩は数度ゆるくまばたきをして、うれしそうに笑った。
 華やかで優しい、穏やかな音色が流れる。いっぱいの愛おしさを詰め込んだ甘い旋律が古い音楽室に満ちていく。うるさいセミの声も、運動部の掛け声も、うざったいほどの暑ささえも、ボクらに届かない。
 あっという間の三分だった。
ボクも先輩も、口を開かなかった。彼女は鍵盤に手をかけたまま。ボクはうつむき前髪で目元を隠したまま。

「あのね、ソウヤくん」

 顔をあげる。先輩は鍵盤を見つめたまま、居心地が悪そうに足の指を踊らせていた。

「私、海外に行くことにしたよ」
「……へえ、そう」

 ですか。と、続けるはずだった言葉は、途中で声にならずに消えた。代わりのつもりなのか、先輩がぽーんと無意味に鍵盤を叩く。

「ピアノの先生がいてね。コンクールで知り合った海外の先生もいて」
「はい」
「数年前からね、ウィーンで勉強しないかって誘われてたの」
「……はい」
「私三年だし、日本の受験しても意味を感じないし、それよりたくさんピアノを弾きたい」
「…………」
「だから行くことにしたんだ、海外に。ピアノをたくさん食べようと思ってる」
「……ほ、うかごの、」嫌に唇が乾いていた。「イベントがひとつ減りますね」
「はは、そうだね。でも大したことじゃないだろう」

 また、ぽーんと鍵盤が叩かれる。意味のない音を何度もぽーんぽーんと弾ませて、流れるように旋律が紡がれた。
 エドガー、愛の挨拶。
 エドガーが愛する女性との婚約をした際に贈った楽曲で、やわらかく穏やかな甘い旋律が特徴的。身分差や信仰する宗教の違いで、大団円の恋とはいかなかったエドガーが、その心を音色で綴ったものだ。
 それをボクが弾いてほしいとリクエストして、別れを告げた先輩が自主的に弾き始めた。
 期待して、いいのだろうか。柔らかく甘い旋律が耳を撫でていく。先輩の素足がペダルの上で踊っている。つぅ、と汗が首を伝って落ちた。不愉快で、視線を下げる。

「夏のうちからむこうに行って、九月の新学期に合わせようと思っている」

 一曲弾き終わった。また、先輩が愛の挨拶を奏でる。ボクの背筋は丸くなってうつむいたままだ。

「ソウヤくん」

 返事はしない。固く口を結ぶ。

「ねえ、ソウヤくん。君もピアノを始めるのはどうかな」

 それにも応えない。ボクのなにかが、どこかが、頑なになる。

「君は手が大きいからね、1オクターブなんて、きっと余裕で届くよ。手が大きいのだって才能だ」

 四回目の愛の挨拶が始まった。回を重ねるごとに、音がどんどん甘くなる。砂糖菓子にも負けないくらいの、甘い甘い音色。

「それで、ソウヤくんが弾く愛の挨拶が聴きたい。大好きだから」

 オレンジ色に煌々としていた音楽室も、徐々に暗くなっていく。運動部の声など聞こえなくて、けれど変わらずにセミはじゃかじゃかうるさくて。なのに、先輩のピアノだけは虚しい気持ちの隙間を埋めるように流れ込んでくる。
 ねえ、先輩。先輩が好きなのは、ピアノですか。愛の挨拶ですか。それともボクのことですか。──胸の中で問いかける。
 満たされない気持ちだった。
 常にお腹が空いていて切ないような、身長が足りなくて欲しいものに手が届かないような。そんなもどかしくて切ないような気持ちが、常にそばにあった。
 けれど同時に、すぐにお腹いっぱいになる呪文も知っていた。知っていて、口にしなかった。否、できなかった。先輩が奏でる音が濁ってしまう気がして、彼女の邪魔をしてしまうような気がして、言えなかった。

「先輩」愛の挨拶が終わった切れ目に、言葉を挟む。「ボクも、好きですよ」

 一瞬だけ、驚いたように先輩の指先が固まった。嬉しそうに表情が溶けるのが見える。なにが好きなの? なんて問われなかったし、ボクも言葉を重ねることはなかった。
 五回目の愛の挨拶が流れる。綿菓子みたいにふわふわしていて、甘くて儚い旋律に変わった。
 思っていたとおり、呪文を唱えた途端に先輩の奏でる音色が変わった。けれど、こんな変化だと知っていたなら、もっと早く唱えればよかった。
 空腹感に似た感情は、きっともう、なくなることはないのだろう。だってボクは、音楽も、ピアノも、先輩も、素直に食べることができなかったのだから。

30日チャレンジ2日目
空腹、猫、校舎
秋山黄色さんの『猿上がりシティーポップ』を聴きながら。
 猫背のつもりで書いていたけど、猫っぽい先輩後輩のほうがしっくりくる気がする。
 先輩もソウヤも多分、友達少ないんだろうなあと思う。

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